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時計台

北海道札幌市中央区北一条西2丁目

撮影日:2007年07月25日

1.時計台の概要

 時計台は、現在の北海道大学の前身である札幌農学校の演武場として明治11年に建てられまいた。演武場は、講義室、標本室、屋内体育場、各種催事場の機能を併せ持つ建物でした。
 明治36年から昭和10年代後半までは教育団体の事務所、附属図書館、文化活動として利用され、第2次世界大戦をか挟む昭和18年から昭和23年までは軍用施設、各種民間団体事務所として使われました。
 その後昭和25年から昭和41年まで市立図書館として使用され、図書館移転に伴い昭和42年に復元工事を行いました。昭和45年に重要文化財に指定されました。

2.札幌農学校と開拓使

 明治政府は、北海道の開拓を進めるために、明治2年、開拓史を設置しました。
開拓使は、北海道の開拓に当たり欧米の経験、技術を導入するため、ケプロンを始めとする外国人指導者や技術者を雇い入れました。
 また、留学生を欧米に派遣してその知識、技術を吸収させるとともに、ケプロンらの遺言もあり、国内での人材育成を図る準備を進めました。
 明治5年、開拓使東京出張所があった芝増上寺内に学校が開設されました。
この学校は、専門の教育機関としていたため、仮学校と名付けられ、札幌農学校となりました。


3.開拓使仮学校

 明治5年4月開校した仮学校は、生徒定員を官費生、私費生合わせて100名とし、生徒は卒業後、北海道開拓に従事することが義務付けられていました。
 教科は英語や地理などの普通科と、機械学、鉱山学、農学などの専門学に分けられていました。
 また、仮学校には、北海道の地質や鉱山の測量を行ったライマンを補助した地質測量生徒、明治7年以降の北海道の電信事業の担い手として活躍した電信生徒らがいました。
 なお、明治5年9月、仮学校内に官費正50名の女学校としては日本で2番目のものでした。

4.札幌学校

 仮学校は明治6年3月に一時閉校し、4月に再開されました。
この時に、専門科は2年後の明治8年に開設することとしていました。
 明治8年7月、仮学校を札幌に移し、札幌学校と改称して9月に開校式を行いました。
生徒は35名で、パン焼き職人、コック、靴師らも同行しています。
 女学校は明治7年に移転の予定でしたが、生徒の反対に遭い、同じく明治8年8月に移転を行いました。しかし、翌年5月には廃校となりました。
 開拓使では並行してアメリカからの教師を迎える準備を進めていました。


5.札幌農学校

 農学校開設に当たり、明治9年3月、マサチューセッツ農科大学学長であったクラーク及びホイラー、ペンハローの雇い入れが決まりました。
 同年8月、1期生24名を迎えて農学校の開校式が行われました。
開拓使長官黒田清隆の式辞、調所広丈の告辞、クラーク教頭の演説があり、生徒への激励と期待が述べられました。
 札幌農学校の名称は9月に正式に決定しました。単に農業教育機関としてばかりでなく、日本における高等教育機関としても、最も早く設置された官立学校の一つでした。
 当時、札幌の市中の人口は約3千人ほどで、誕生間もない小さな近代文化の発信地の一つとして発展していく礎となりました。

6.演武場の計画

 教頭クラークは、科学講堂、書庫の設置や農園の拡張と模範家畜房の建築など、施設の拡充に努めました。次いで教頭代理となったホイラーは、農学校本館(講堂、博物場、抗議堂)とミリタリーホールの施設を提案しました。
 本館は、鐘楼つきのレンガ造り2階建て、ミリターホールは木造平家建ての窯でした。しかし、開拓史は財政上の理由から、施設の縮小案を求めました。
 このためホイラーは、2つの建物を1棟にまとめ、木造2階建てとする設計案を提出しました。
設計案は平面略図と建築要領を示したもので、これが現在の時計台(演武場)建築の始まりとなりました。


7.演武場の建設

 ホイラーが提出した図面、指示書を基に開拓使工業営繕課により実施設計が作成されました。
設計を担当したのは豊平館の設計も手掛けた安達喜幸であったと考えられます。
 明治11年5月末、演武場建築の許可が下り、6月に工事が発注されました。
演武場は農学校本館を兼ね校地の中央に位置することとなり、10月上句工事が完成。
同月16日に開業式が行われました。
 開業式では学生代表の佐藤昌介、大島正健、荒川重秀らが英語、あるいは日本語で演説を行いました。
 なお、演武場の設計金額は4,748円で、実際の発注金額は3,869円でした。

8.時計塔の設置

 演武場の鐘楼に時計を設置するよう指示したのは黒田長官であると言われてます。
ホイラーはアメリカのハワード時計会社に塔時計を注文し、明治12年6月、時計機会が横浜に到着します。札幌には8月に到着しました。しかし、時計機会が大きく鐘楼に納まらないため、開拓使札幌本庁などの関係者はその対策に苦慮しました。
 建築中の豊平館に取り付ける案などが検討され、ホイラーは、理路整然と釈明して開拓使を説得しました。この結果、鐘楼を改修し時計機会を設置することとなりました。
 明治14年5月から8月12日に時計は動き始めました。
こうして現在の時計台の姿になりました。
 


9.農学校の教育

 札幌農学校の教科は米国マサチューセッツ農家大学に範をとっています。
専門の農業教育のみならず、知育、徳育、体育といった全人的教育を目指すという同大学に思想が反映されています。
 また、英語による授業に力点が置かれていたことは札幌農学校の大きな特長でした。
札幌農学校ではアメリカ人教師による授業は全て英語によって行われていました。
 生徒は講義内容をノートに書き留め、寄宿舎に戻ってから清書を行いました。
ちなみに、農学校の規則には最低4時間の自習を行うことを生徒に義務づけていました。
 初期の農学校生徒から優れた英学者が誕生した理由として、このような生徒と英語とのかかわりが挙げられます。

10.学生たちの生活

 当初の生徒たちは寄宿舎で起届していました。午前中の復習と4時間の授業が日課でした。
午後は農学実習の日がありました。門限は夜7時でした。
 授業の一環では、採集や地質調査などの野外実習が行われ、石狩川上流や室蘭、長万部などへ出掛けています。
 標本類は演武場1階の博物本室に陳列されていました。
また、明治11年からは遊会(運動会)が毎年開かれ、後には札幌の年中行事の一つになっています。
 演武場では毎年卒業式が行われ、平業生による英語の演説などが行われていました。
明治25年、生徒による「学芸会」が設立され、定期的に集会や講演会が開かれました。


11.札幌農学校の卒業生

12.札幌農学校の卒業生

13.外国人教師たち

 札幌農学校開校以後外国人教師はクラークからブリガムまで11人でした。
この内8人が米国マサチューセッツ農家大学に関係者です。彼らは農学校の教師にのみならず、農業、漁業、土木、建築などの北海道開拓に様々な分野にわたり指導、助言を行いました。
 クラークは、魚類缶詰製造などについて、ホイラーは、農学校の諸建築に携わったほか、小樽までの鉄道予定地の測量や豊平橋の改築に、ペンハローは、鉱物や土質の分析やコークスの製造などに、ブルックスは、玉ねぎ、とうきびや牧草の普及などに貢献しています。
 その他の外国人教師も同様な活躍をしました。

14.時計台の移管

 札幌農学校は、現在の北海道大学構内を移転先として、明治32年より新校舎の建設を始めました。工事は明治36年にほぼ終了しました。
 不要となった旧校舎のうち、北講堂は民間の病院に、寄宿舎の一部と復習講堂は札幌商業倶楽部に、化学講堂は北海道女学校に払下げられました。
 演武場は、農学校の記念物として、また、市民に標準時を知らせ親しまれた建物として保存要望が強く、札幌区に旧校地と共に貸付られました。
 その後、明治39年、札幌区が買取り、北2条通りの敷設に伴い、現時の位置に引き家いました。
こうして市民の時計台となりました。


     
     
     
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