ページのTOPへ
TOPへ 五稜郭タワー 五稜郭タワー1 五稜郭タワー2

五稜郭タワー

北海道函館市五稜郭町43-9

撮影日:2007年07月31日

五稜郭タワーに、記念スタンプ用紙が置かれてあったので、記念に4種類のスタンプを押しました。


 五稜郭とタワーのかたちに触れられる「さわれる模型」がありました。
視覚がご不自由なお客様でも五稜郭の美しい星形やタワーのユニークなデザインを触って体感いただけます。

 五稜郭タワー展望1階には、強化ガラスの床で展望台の真下がそのまま見える「シースルーフロア」があり、その上に立って、空中散歩の気分を体験できます。

 五稜郭タワー展望2階には、新撰組副長の土方歳三の青銅(ブロンズ)像がありました。
フロックコートにブーツ、腰に刀をさした洋装姿の土方歳三が椅子に座っている姿の一般にもよく知られている土方歳三のブロンズ座像「土方歳三之像」です。
 像本体は、ほぼ等身大で約135cm、台座は約50cmです。

 制作は立像・胸像の制作者である函館出身の彫刻家、小寺眞知子さんが土方歳三の写真を基に小寺先生が2年をかけて制作いたしました。
 
 また、五稜郭タワー展望2階には、グラフィック展示「五稜郭物語」は、ペリー来航から始る五稜郭の歴史を、年表や絵図面でわかりやすくご紹介してあります。

@亜墨利加船、箱館来航

 安政元年(1854)、徳川幕府は二百年以上続いた「鎖国」を廃止し日米和親条約を結びました。開港場に決定した箱館の調査のために艦隊を率いてやってきたペリー提督と、幕府から応接役を命じられた松前藩の家老がアメリカの軍艦上で対面しました。

A開港場での交流

 開港場となった箱館の町には、外国の水兵や船乗りが毎日のようにやって来ます。彼らは商店の品物をお土産として買求め、八百屋で買ったキュウリやなすを生でかじったり、木魚を叩きながら踊ったりする水兵もいたようです。
 

16景の情景模型(ジオラマ)「メモリアルポール」では、五稜郭が経てきた激動の歴史と人々のドラマを目の当たりにできるでしょう。

B北の大地を拓く-箱館奉行

 徳川幕府が箱館と蝦夷地を納めるために任命した箱館奉行は、開拓や産業の育成を目指すと同時に、箱館の防備強化も計画しました。蘭学者の武田斐三郎が、ヨーロッパの「城郭都市」をモデルに考案した新しい要塞の設計図を奉行に説明しています。

C幕末の高等教育-箱館諸術調所

 箱館諸術調所には、身分に関係なく入門できたため、日本各地から学問を志す若者が集まりました。教授である武田斐三郎は、オランダ語や航海学、測量、造船、化学などの専門的な技術と知恵を熱心に教え、ここから近代日本の指導者達が育ちました。


D蝦夷地(えぞち)経営の拠点-五稜郭築造

 安政4年(1857)、五稜郭の建設工事が始まりました。
堀を造る工事や石垣を積む工事、お役所の住む家を建てる工事などが行われ、日本の各地から専門の職人や多くの労働者が集まり、7年の歳月をかけて元治元年(1864)、一応完成しました。

E旧幕府脱走軍、蝦夷地上陸

 明治元年(1868)10月20日、箱館から45kmほど北にある鷲ノ木の海岸に、旧幕府脱走軍が上陸しました。吹雪と激しい荒波により上陸用のボートが転覆して多くの犠牲者を出しながらも、陸軍の部隊が箱館・五稜郭を目指して出発しました。


F五稜郭入城と箱館占領

 五稜郭に有る新政府の役所「箱館府」は、守備隊を派遣して箱館へ迫る脱走軍を攻撃しますが、戦いに慣れている脱走軍に蹴散らされてしまいました。脱走軍を率いる榎本武場が、日の丸の旗を先頭に行進する部隊とともに五稜郭へ入城していきます。

G松前攻略・館城の戦い

 箱館を占領した脱走軍は松前藩に平和共存を提案しますが拒否されたため、陸軍を派遣して松前を占領しました。
松前藩の砦であった館城も脱走軍の攻撃を受け、僧侶でありながら松前軍のリーダーである三上超順らの奮戦もむなしく攻め落とされました。


H旗艦開陽、江差港に沈む

 松前を攻撃する陸軍を海から支援するために出撃した旧幕府軍の軍艦「開陽」は、冬の日本海の嵐により江差の港で座礁してしまいまいした。陸軍を率いて江差に到着した土方歳三が、荒波に砕かれていく「開陽」を見て言葉もなく立ち尽くしています。

I蝦夷全島平定、仮政権の樹立

 軍艦「開陽」を失いながらも松前藩を打ち破り、全蝦夷地を手にした旧幕府脱走軍は、明治元年12月15日、箱館港で百一発の大砲を撃って勝利を祝いました。彼らは入札(選挙)によって、榎本武場を総裁とする仮の政権を樹立しました。


J明治新政府軍、反撃開始

 明治2年(1869)3月、春の到来と同時に、明治新政府軍の大部隊が日本海側の乙部の海岸に上陸しました。旧幕府脱走軍に対する反撃が開始されたのです。彼らは陸軍を3つに分けて、脱走軍の本拠地である箱館・五稜郭へ向けて進撃を開始しました。

K一進一退の攻防

 箱館への最短ルートである江差山道では、脱走軍陸軍奉行並である土方歳三の率いる部隊が陣地を築いて新政府軍の大部隊を迎え撃ち、激しい銃撃戦で撃退しました。しかし新政府軍は、第二陣・第三陣の増援部隊を加えて五稜郭へ迫ります。


L箱館総攻撃

 明治2年(1869)5月11日、箱館と五稜郭を包囲した新政府軍は、遂に総攻撃を開始しました。箱館山裏側の絶壁を登って現れた新政府軍の奇襲部隊により箱館の町は占領されてしまいます。これを知った土方歳三は箱館の奪回に向いますが、銃弾を受け戦死しました。

M戦時下の赤十字精神

 新政府軍の一隊が、脱走軍の箱館病院にも突入しました。病院長であった高松凌雲は、けが人や病人の命を助けるために赤十字精神の大切さを訴えました。新政府軍も患者達を救うことを約束し、この後、高松凌雲を通して脱走軍に降伏を勧めます。


N五稜郭開城・終戦

 明治2年(1869)5月17日、榎本武場ら旧幕府脱走軍の幹部は新政府軍の陣地に出向いて、亀田八幡宮の神前で降伏を誓いました。翌日彼らは新政府軍に五稜郭を明け渡し、箱館戦争は終結しました。ここに幕末維新の動乱は終了し明治時代が動き出すのです。

O静穏

  箱館戦争の終了後、五稜郭の堀では、冬期間に天然氷の切り出しが行われ、明治4年(1871)には本州へ送られて「五稜郭氷」の名で売り出すほどの産業に育ちました。また大正3年(1914)には公園、昭和27年(1952)には特別史跡に指定され、激動の歴史を静かに伝えています。

     
     
     
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送